SL COLLECTION

ヒデとロザンナ

はいつまでも ~45周年~

ロザンナ

 

「愛の奇跡」で昭和43年10月にヒデとデュエットを組んでデビューし、早45周年を迎えます。思い出せば、17歳でイタリアの叔父のカンツォーネバンドのヴォーカルとして来日し、赤坂のクラブで歌っている時のことでした。何度か日本人女性歌手とデュエットを組んでは解散して、今度は外国人女性のデュエット相手を探していたヒデが私のステージを見て会いたいと言ってきたのです。

 

私は実家の事情で父母を経済的に助けたいと思い、東京に出稼ぎのつもりで来日していたので6ヶ月で帰国するつもりでした。でも当時も東京の物価は高く、貯金どころではありません。

 

叔父にもう半年歌わせて、とお願いしてまもなくのことです。昭和43年、とてもよく晴れた5月のある日がヒデとの出会いの日でした。誰もいない私の所属事務所で待つこと45分。ようやくヒデが現れ、大きな口に真っ白な歯をきらっと輝かせ“ボンジョルノ(こんにちは)”とイタリア語で挨拶したのです。その瞬間でした。私はこの・・人・と結婚するんだと全身全霊が激しい稲妻に打たれたような衝撃を受けたのです。

 

8月にレコーディングして10月に発売。“ヒデとロザンナ”の誕生でした。

暮れにかけて、自転車にのぼりを立て九州からキャンペーンが始まりました。寒い中、ミニスカートにタンバリン、ヒデはギターを持ってレコード店の店頭で歌とサイン即売会。とっても懐かしい思い出です。まだ日本語は挨拶くらいしか話すことのできない私でしたが、ヒデがそばにいてくれるだけで幸せを感じていました。

 

あっという間にヒットの兆しが九州から起こり、翌44年には全国を駈け回るほど忙しい日々が続き『愛の奇跡』はすべてが奇跡のような大ヒットとなったのです。その2年後に発売になった『愛は傷つきやすく』がミリオンヒットとなり“ヒデとロザンナ”は多くの人々に認知され、可愛がっていただきました。その間、ヒデとの愛はまだまだ私の一方通行の感があり片思いのようでしたが、見た目より芯の強い私は(いつかみてなさいよ)といつも心に言い聞かせていました。

 

日本語が話せず意思の疎通ができないため寂しい思いをしていましたので、まず、日本語を覚えようと必死で日本語を勉強しました。結婚にこぎつけるまで6年近い月日が流れました。その間2度ほど、もうだめだと思う辛い時期があり、私はイタリアへ帰りました。でもイタリアの実家へ帰ると、またヒデへの思いが募り、会いたくて東京へ戻ってしまうのです。

 

昭和49年長男を妊娠し、ダメもとで彼に結婚を詰め寄ったとき「結婚しよう」と言われ私の長い間の思いのすべてが成就したのです。ヒデとともに歌った事は私の青春・人生のすべてかもしれません。一曲一曲に彼との思い出が詰まった宝石箱のようです。

 

『愛の奇跡』のおかげで結婚し3人の子供に恵まれ、今は孫も5人となり、私はとても幸せです

 

ヒデは平成2年にガンで他界しましたが、数々の歌が私と子供たちに2人の愛のすべてを語りかけてくれるようです。これまで応援してくださった多くの方々も、この曲たちをお聴き戴いたときに、青春の日々をよみがえらせてくれることを願っています。